『ゲド戦記1 影との戦い』を再読して

■『ゲド戦記 影との戦い』について書くための前置き


スタジオジブリによるゲド戦記の映画化があって、僕の周りには思ってもみなかったゲド戦記ファンが何人かいることがわかった。僕がゲド戦記を初めて読んだのは高校1年生の夏休みだったと記憶している。その頃から現在まで、ゲド戦記のファンだという人には出会わなかったし、マイナーなファンタジーに過ぎないのかと思っていた。

僕がゲド戦記を読んだのは高校の夏休みの課題の読書感想文のためだった。高校1年生の夏休みに『影との戦い』を読み、高校2年生の夏休みに『こわれた腕輪』を読んだ。そして、当時「三部作」だった最後の『さいはての島へ』を3年生の夏休みに読もうと考えていたのだが、読書感想文という課題は3年時にはなかった。そのため、『さいはての島へ』は読まないままでいたし、4冊目の『帰還』も実家に所蔵はされていたが、読まないままでいた。

何も読書感想文という必要に迫られずとも読めばいいものを読まずにいたのは、当時の僕にとってゲド戦記が特別面白い本ではなかったということを物語っている。面白い本ではなかったどころか、文章が読みにくくて読み進めるのが苦痛な本だったと記憶している。

映画化があって、周りにファンがいることを知って、読まずにいた3冊目がどんな話であるのかが気になった。もしかすると今読めば理解ができるのかもしれない。そう思って、帰省した際に3冊目と4冊目を読んだ。

3冊目を読んで、映画で主人公のような顔をしている少年がアレンであることはわかったが、「命を大切にしないやつは大嫌い」とか何とか言っているヒロインが登場しないので、あれっと思って4冊目を読んだ。しかし、4冊目のアレンは3冊目で試練を終えてすっきりした顔で脇役でしか登場しない。映画の予告で顔に火傷らしきものをおったヒロインはテルーらしいが、「命を大切に」云々とは言いそうもない*1

となると5冊目が原作にあたるのだろうかと思ったが、5冊目は実家にはない。しかし、まあ、もうどうでもいいかという気になっていた。3冊目4冊目もやはり面白いとは思わなかった。きっと僕はこの作品との相性が悪いのであろう。そう納得すればいいものをどうしてもすっきりしないものが残るので、1冊目の『影との戦い』を読み直してみようと思った*2

■無駄のない名作


高校1年生の時には何日かかけて読んだ本も今では数時間で読み切ってしまえる。話の筋を忘れないうちに最後まで読むことができた。

ゴント島の鍛冶屋の息子ダニー(ゲドの幼名)は、幼少時にまじない師の女性に見出されて簡単なまじないを教わるようになる。まだ本格的な魔法の教育を受ける以前に、彼はカルガド帝国によって侵略を受ける十本ハンノキの村を教わったまじないを駆使して守り通す。村を守った彼は倒れて寝込んでしまう。その彼を救ったのがかつて島を地震から守ったとして名高い魔法使い・沈黙のオジオンだった。

成人してオジオンの弟子となり、正式に魔法を教わるようになったゲドだが、オジオンはなかなか直接的には魔法を教えてくれない。知識と力を得たいと願う若者のはやる気持ちと、教えを授ける教師の落ち着いて焦らない態度とが描かれるのを読んで、思わずニヤッとしてしまう。

やがて、ゲドはオジオンの元を離れロークの魔法学院に入学する。ロークでは憎いライバルとしてヒスイ、物語後半の旅の共ともなる友人としてカラスノエンドウと知り合う。自分より出来て、自分を馬鹿にしたような態度をたびたび見せるヒスイにゲドは反感を強めていく。かつて友人がゲド戦記のことを「ジュブナイル」小説だと言っていたが、なるほどジュブナイルだなあと思う。物語の展開や配役に無駄がない。名作の名作たる所以か*3

■誘惑の位置づけ


着々と力を付けていくゲドは、しかし、ヒスイへのコンプレックスは拭うことができず、ついには、ライバル意識から禁断の魔法を示威行為のために用いてしまう。そのために現れ、ゲドに付きまとうことになる「影」との戦いがここから始まる。せっかくうまくいっていた修行もこの一件のために後退することになるし、何より若くして今後の人生に重い枷をかけられてしまう。それも、自分の思い上がりが原因なのだから救われない。

ロークを卒業したゲドは竜の脅威にさらされるロー・トーニングへ派遣される。ゲドはペンダーの竜との交渉を成功させる。ペンダーの竜は、ゲドを狙う影の名前を教えてやろうかと誘うが、ゲドはこの誘惑に打ち克つ。次に向かったオスキルではテレノンの石の誘惑と戦い、これにも勝利する。どちらものってはいけない誘惑で、ゲドはどちらにも心を揺れ動かせながらもこの誘惑を逃れ、危機を脱する。

これらの誘惑は何なのだろうかと思う。どちらも自分より大きな力、未知の不思議な力だ。一度は読んでいる話だし、薄々と影というのはゲド自身なのだろうなと予測はつく。自分と戦うのは自分の力でなければならないし、外部の何かに頼ることは大きな災いを呼ぶことになる。影はゲドを乗っ取ろうとするし、乗っ取った影はゲドの力をそのまま手に入れる。「誘惑」は影の仕組んだものとして語られる。自分の責任を放り出して、判断を他人任せにするとろくなことにならないというメタファーなのだろうなあと思いながら読んだ。

■自分と向き合うことにともなううだうだ


オスキルを離れたゲドはオジオンの元を訪れる。オジオンとの再会を経て、ゲドは影と正面から戦う決意をし、「狩り」に出る。かといって、相手がどこにいるかはわからないのだが、ゲドは海に出る。海に出るのは、他人を巻き込まないためと、もし影に乗っ取られてしまってもそのまま海中に没すれば被害は最小限に食い止められるだろうとの目算があってのことらしい。

その後、海上での影との接触があったり、次作への伏線が張られたりしながら、立ち寄った島でカラスノエンドウと再会し、見届け人としてのカラスノエンドウと共に南へと帆を張る。そして、二人がいくつもの島に立ち寄るエピソードをカバーの裏にプリントされた地図と照らし合わせながら読み進む。最初見たときはゴチャゴチャしたわかりにくい地図だと思ったが、この地図もこの物語に添えられた重要なアイテムなのだなと感じられた。

オジオンと再会し、ゲドが影と戦う決意をしたところで物語はターニングポイントを迎え、終局へと向かい始めるのだが、ここからが長い。戦う決意をした時点でもう答えは出たようなものなのだから、ひっつかまえてさっさとしとめればいいものを、島から島への南の海への旅は、読んでいて退屈になる。地図を見つつ読みながら、「ああ、これは行く所まで行かんとダメなんだな」と思う。

「この先は地図にない」という「さいはて」まで行かなければゲドは影を追いつめられない。いや、その「さいはて」を越えていかなければならない。自分自身の「既知の限界」を越え、確信を持って向かわなければ影を追いつめることは出来ない。ゲドとカラスノエンドウのだらだらと続く南への航海の過程を読みながら、「ああ、ここは自分と向き合う決心をしたものの、やっぱり何となくうだうだしてしまうゲドのうだうだな内面が描かれているというわけか」と納得する。

そして、「さいはて」を越えてたどり着いた砂浜でゲドは影を捉え、自身と一体化する。やれやれ。

■影を捉えることはできたのか


再読してみて、なるほどよくできた話だなとは思う。しかし、僕はこの話を特別に好きにはなれないようだ。そして、別に好きでなくてもいいなと思えた。話の筋は理解した。何かを感じる所もあった。しかし、この主人公が特別に魅力的だと感じるわけでもないし、アースシーの世界が魅力的だとも思わない。「これ以上でもないし、これ以下でもない」というラインが引かれたのだ。続いて『こわれた腕輪』も再読しようとしたが、さすがにもういいやと思った。僕はゲド戦記が嫌いなわけではない。しかし、特別好きでもない。

こういうことなのかなと考えてみる。「高校生の時分、周りで流行っていたものを面白いと思えずに抱いた疎外感を、『名作』とか『古典』といった権威にすり寄って代替して満たそうとしたのだが、『名作』『古典』の方も、だからといって必ずしも面白いものではなかった」と。そして、最近になって映画化で脚光が当たったことと、身近なところにファンがいると知ったこととが、ゲド戦記をシンボルにしてこのくすぶった思いを再燃させたのかもしれない。

ゲド戦記 影との戦い』に引きつけていえば、その疎外感が影だったのかもしれない。こう書くとまとまりがよいが、一度は捉えたはずの影が別の形でよみがえることや、捉えたつもりでも捉え切れていない部分が残ったり、捉えようとするが故に逃してしまう部分だってあるのではないか。ゲド戦記はどこか説教臭くて、僕はやはり嫌いなのかもしれない。どっちでもいいが。

ゲド戦記 1 影との戦い

*1:映画の公式サイトを見て、原案に『シュナの旅』があるのを目にしてぞっとした。スタジオジブリによるゲド戦記ゲド戦記の殻を被った『シュナの旅』なのか。かつて宮崎駿ゲド戦記の映画化をル=グウィンに申し込んで断られ、その後彼の評判を知ったル=グウィンの方から映画化の申し出があったという経緯があるらしい。ル=グウィンのWebサイトにある彼女のコメントを見ても、宮崎駿の才能に惚れて映画化をお願いしたいということだったようだし、それが息子の宮崎吾郎に預けられることになったのがそもそも不可解だ。妙なオリジナルストーリーにするくらいなら断りゃよかったのに。

*2:ところで、原題には「影との戦い」とも「ゲド戦記」ともない。また、「こわれた腕輪」とか、「さいはての島」とか、「帰還」とか「最後の書」といった邦題にある言葉のことごとくが原題には無い。このシリーズは「ゲド戦記」というタイトルから連想される「戦記」ではない。また、ゲドを主人公とした一続きのシリーズというわけでも必ずしもない。思えばこのシリーズタイトルにはずいぶん混乱させられたと思う。「アースシーの魔法使い」(1冊目の直訳)シリーズとでもしておいてくれたらよかったのに。

*3:ゲド戦記の名作たる所以の一つは、敵が自分自身であるという点にあるらしい。「ゲド戦記がなければスターウォーズもなかった」というほど、その後の物語づくりに大きな影響を与えたのだそうだ。僕がゲド戦記を読んだ時には既にゲド戦記インパクトは広く行き渡り、そのテーマ性はしゃぶりつくされてマンネリ化していたのかもしれない。ゲド戦記を読む以前に有象無象の作品から複製されたゲド戦記の断片を受け取っていたとしても不思議はない。