かつおたたき

昨日は午後出かけて、疲れ果てて頭おかしくなっていたのか1,400円分ものお惣菜を買って帰ってしまって後悔した。


今日はちゃんと料理をしたいと思いスーパーに行った。何か魚がいいなあと思う。メインを魚にしてほくほくしたじゃがいもも一緒に食べたいと思う。となると肉じゃがだろうか。肉じゃが以外にじゃがいもをほくほくに食べるメニューがないものだろうか。おひたし用にニラも買った。



うまかった。やはり自炊をした方がごはんがおいしい。自炊をするメリットはいくつかあると思うのだが、おいしいごはんが食べられるというのが一番に来るべきだと思う。


節約は自炊をすれば自然とできることなので、目的にするようなものではない。栄養バランスというのも、外食に比べれば自然とついてくるものではないか。おいしいごはんを食べたいと思えばおかずの数も増えるし、単純においしいものが食べたいと考えていればいい。


  • どうやってメニューを決めればよいか


安いものを買って、そこからメニューを組み立てるというような器用なことはできない。


作るものが決まらないときは、まずスーパーの中を歩き回ってこれを食べたいと感じるものを探す。主菜でも副菜でもいいので、今日はこれを食べたい、これを作りたいというものを見つける。


次に、それと一緒に味わいたい味のイメージを膨らませ、とりあわせを固めていく。あんまり考え込まないようにして自分を追い詰めないようにしたい。


今日は自炊面倒くさいなという日でも、「これが食べたい」が一つ見つかればあとはそんなに負担ではない。うーん。


食べたいと思わないものを無理やり作るのはよくない。でも、食べたいものを決めるのがしんどいときが結構ある。その負担をうまく散らすのが大事だ。「スーパーに行けば何とかなる」「悩むことなどない」と思えればすべてがよく運ぶ。


しかし、なかなかそうは思えない。なぜそう思えるようになるのか。自信や信頼感というのはどうやって保証されていくのだろうか。何によって保証されているのだろうか。


持続的自炊生活の問いの一つはこの辺にありそうだ。

  • レシピを読むわずらわしさ


あと、レシピを読むわずらわしさというのもあるなと思った。


材料が多かったり、よく知らない材料が混じっているともう面倒くさい。字がたくさんあると読みたくない。作るかどうか決めかねている時は特にそうだ。


作り出してからも、「あれを入れ忘れた」「あれを用意していない」というふうなエラーが起きて、レシピの中に地雷が埋め込まれているような気持ちにさせられることもある。


レシピの「読み方」があるはずだ。社会学的にいえばフレームだ。レシピを情報処理するフレームがいくつかあって、熟練者はそれを場合によって使い分けているのではないか。


最近ではレシピに上げられている材料がなくても無視したり、違う物で代用したりできるようになってきている。これもレシピというものの読み解き方が変わったということで、これは同時にレシピというものの価値が僕の中で変わったのだと言うことができるのだと思う。では、どのような読み解き方からどのような読み解き方に変わり、それによってレシピの価値がどのようなものからどのようなものへと変化したのか。これも一つの問いとなりうる。

  • レシピの構造的理解?


材料を無視したり代用したりという応用が利くようになってきたと思う一方で、未だに肉じゃが一つ作るにも調味料の分量はいちいち確認しなければならないのはどうだろうと思う。


どれくらい入れるかはもちろん、何を入れるかもあまり自信がなくて、その都度レシピを確認しなおしている。おひたしの場合はまったく見ずに作る場合もあるが、そんな簡単なものでさえレシピを見直すことがある。今日のニラのおひたしも、薄口醤油で和えたあと「本当にそんなもんだったか」と味に疑問を覚え、確認しなおしたらだし汁で醤油をわったものだった。まあ、薄口醤油だけでダメというわけではないのだけれど。


もしかしたら、レシピを参照しないのは上級テクニックというより「面倒くさいから適当でいいや」というルーズさでもあるのかも知れない。


前にも書いたが、なぜみりんを入れるのか、なぜ清酒を入れるのかがつかみ切れていない。どういう味を目指して何と何をどれくらい入れるのかがわからないとでも言おうか。何と何を入れたらどういう味を作れるかがわからないと言った方がいいのだろうか。うーん。


料理をしていて、たまに「ああ、こうやっていろいろ作ったらもっとアレンジで自分なりの料理ができるかもしれない」と感じる時がある。それは、料理の構造を理解できかけているなと思うからだ。あるいは、「このレシピを構造として理解すれば、構成物を置き換えることで、より自分が食べたい味の食べ物に近づけるのではないか」というふうに感じるのだ。


しかし、そこに至るにはもう少し何かが足りない気がする。経験だろうか。その経験は質の問題なのか、量の問題なのか。

  • 作ることがうまくなることは、食べることがうまくなること?


あと、もう一つ思うのは、作ることがうまくなることは、食べることがうまくなることでもあるように思うのだ。


味わって食べる能力があること。


「こんなにおいしいものができるのか!」「この味わいはこの素材が効いているからか」「この味を出すためにこれを入れるのか」というふうに、おいしさを作り出すためにいろいろ考えられてこういうレシピがあるのだという理解。レシピを理解するには、おいしいということを理解しなければいけないのではないだろうか。


なるほど、このことは買い物の際に「自分が食べたいものが決まると料理が苦痛でなくなる」ということと繋がっているのかもしれない。