昨日書いたように、今日はお義母さんの誕生日祝いにうちで食事をした。


『うちの玄米ごはん』から、「豚ロースのサクサク焼き」、「もやしとねぎのナムプラー炒め」、「しいたけとわかめのスープ」の3品をチョイスした。


来客の場合、うまい具合に仕込みを終らせておかなければならない。初めての料理だし、早めに作業に取りかかることになる。作り置きしておいて大丈夫なもの、食べる直前に仕上げた方がいいものを頭の中で仕分ける。


スープは先に作っておいても温め直せばいい。豚ロースのサクサク焼きの付け合わせも先に作っておいた。薄切りにした大根を塩揉みして、ザク切りしたクレソンを混ぜる。塩揉みの際に塩を入れすぎて、めちゃくちゃ辛くなった。しまったなあと思ったが、ざるにあけて流水で洗ったら解決した。塩揉みは塩味を付けるのが目的ではないはず。


もやしとねぎのナムプラー炒めも、いったん作業を置いたが、同時に火を使うには限界があるし、先に作っておくことにした。これだったら電子レンジにかけても大丈夫そうだし。


玄米は前夜から付けておいたものを、かまどさんで炊く。最初の数分、タイマーをスタートし忘れたせいで時間がわからなくなって焦ったが、うまいこと炊けてくれた。


栗ごはんは再チャレンジになる。今回はもち米なし。『きのう何たべた?』の栗ごはんのレシピに従った。舐めておいしいかなーくらいの塩加減という指示がちょっと面倒だなと思う。少しずつ塩を足して舐めるを繰り返して、「うまい!」というポイントを探る。こういう「自分のいいと思うぐらいで」という指示がどうも苦手だ。「もう少し足した方がおいしいのかな」とか思ってしまう(そして、入れ過ぎる)。小林カツ代の本なんかでも、「料理なんて適当でいいのよ」と戦略的に言い聞かせているのだろう部分が見られるが、そういうふうに言われると逆にハードルを高くしてしまうのが僕のようなタイプだ。


豚ロースは包丁の背で叩いて薄くする。こんなことをしたことがなかったので、ちょっと緊張する。「そんなことして大丈夫なのか、肉」という感じ。しかし、そうしないと出ない食感というものがあるのだろう。塩とにんにくを刷り込み、黒こしょうをふる。「適宜」というのはどれくらいだ。最後にかたくり粉をまぶす。うーん、いかにもうまそう。


肉を焼く作業だけを残してお客さんを待った。



全体



アップ


しいたけとわかめのスープが旨い!以前にも感じたが、干ししいたけのだしは旨い。これは旨い。ぜひ作るべき。干し椎茸は高いので、割高な感じもするが、それでも旨い。


豚ロースのサクサク焼きはからし醤油で食べろ本には書いてあったが、そのままでも充分味がした。むしろそのままでよい(塩をふりすぎているのか?)。これは調理する時、油を入れすぎてしまったかもしれない。揚げ物かというくらいフライパンに油が残った。もったいない。


付け合わせにハーブを用いてあると、よい料理のように感じられる。


何かに使おうと思って、ちょっと前に一個だけ買っておいたすだちを添える。しかし、すだちの味はわからなかった。


旨いので、自分で旨い旨い言いそうになるが、お義母さんの前でそれはあまりに自惚れが恥ずかしいので堪えた。


再チャレンジした栗ごはんはこの時、味がよくわからなかった。ごはんの炊きあがりはうまくいったが、栗の色が悪い。全体的に色がくすんでいるし、見場が悪い。渋皮がうっすら残っていたり、変色しかけの部分は炊きあがると紫というか、薄茶色というか、デフォルトの黄色ではなくなってしまう。お客さんにお出しする場合は、多めの栗を、実が削れるのをいとわずにきれいにむいてしまった方がよいように思う。もったいないけど。


一寝入りした後の夕食時に残りの栗ごはんを食べてみると、ちゃんとおいしかった。どうも、寝不足と疲れで味がよくわからなかったようだ。


せっかくおいしい料理を作っても、疲れすぎていると味が分からない。疲れている時に、作った料理がおいしくなくてもあまり考えすぎないようにしようと思った。それは料理の出来の良し悪し以前の問題だ。


ところで、一汁三菜と言った時に、付け合わせは一品に数えるのだろうか。一汁三菜という言葉にこだわり過ぎか。