コリアンダー

今日はお仕事があったので、午後は出かけていた。


家に帰って彼女の話を聞くと、今日は子どもはぐずって大変だったそうだ。「半日ずっとこの子の世話をした」と言われてあてつけがましく感じて、「だったら半日出かけてきたら」などと言ってしまったら、恨みがましい目で見られた。


料理をしながら、僕はこうしてちゃんと料理をしているじゃないかとふっと思ってしまったりすると、別に「あなたは半日この子の世話から離れられていいわね」というメッセージではないんだなと思う。「お前ももっと何かをやれ」という要求ではない。単に、自分が大変だったということを共有したいのではないか。もちろん、「もっと何かやってくれ」とか「少し代わってくれ」と要求したい気持ちがないわけではないが、要求したところでそれが通るわけではないこともわかっているのだと思う。


(と、書きながら、書いておきながら、やはり要求がかなえられることもきっちり含んでいるのではないかという気がしてきた。というのも、これを書いている現在、彼女は息子を僕に任せて眠りについている。夜中に、一時的にとはいえ、僕にまるまる任せることを選択したのである。僕に任せて半日くらい遊びに行ってくるくらいしたらいいのにと思う。しかし、一方で、僕に任せず、自分でやりたいという欲求もあるのだ。というのは、僕に任せると必然的に粉ミルクをやることになってしまう。子どもが粉ミルクに慣れてしまって、母乳を吸わなくなってしまうのではないかという心配があって、できるかぎり母乳をやりたいとがんばってしまうという事情もある。要するに、自分の希望もありつつ、障害も複数あって、それが相互行為において、割り切れない形で噴出するというわけだ(社会学者っぽい!)。)


今日のメニューは出かける前に決めておいた。帰りに足りない材料を買って帰った。メニューの選択に際しては、冷蔵室の中で使われないまま長い間くすぶっているししとう、多めに買ってしまったゴーヤ、玉出で買ったため、賞味期限に不安のあるちりめんじゃこを使ってしまおうということを考えた。また、昨日作りすぎたナムプラー味の豚そぼろも使うため、「うちの玄米ごはん」に載っているメニューも採用した。


「うちの玄米ごはん」からエスニックきのこ炒めプレート、Yahooのレシピからししとうとじゃこの炒めもの、前に作っておいしかったゴーヤとつツナのサラダの3品にした。


ししとうとじゃこの炒めものは、グレープシードオイルという油を使った。初めてこんなものを買った。初めてこんなものの存在を知った。果たしてもう一度使う機会があるのかと疑問だ。オリーブオイルで代用してもいいようにも思ったが、新参者らしくベテラン(レシピ)の指示には黙って従っておこうと判断して、出費を抑えなかった。


今日もなんだかテンポよく調理できなかった。「うちの玄米ごはん」のレシピは普通のレシピと違うのか、作りにくいように感じる。フライパンを2度使ったり、ナンプラーや豆板醤といった調味料に慣れないせいか、工程を確認する頻度が高いのが原因だろうか。


ちなみに、「テンポよく調理できない」という感覚は、フライパンやまな板、調味料を混ぜた器、ボウルなど、使い終わった器具を洗って片付けながら進められないことからきているのだと思う。


単に疲れているだけかもしれない。


サラダ、ししとうとじゃこ炒め、きのこ炒めの順に作っていて、作り進めるうちに、油ばかりのメニューになったなと後悔する。



しかし、写真を見ると、なんかすごい。豪華だ。


そして、うまかった。




そして、これを書き終えるまでの1時間半くらい、子どもがずっとぐずっていたのでなかなか書けなかった。ミルクも飲ませておむつも替えて、考えうることを全部やっても泣き止まないとなればもう放置するしかないではないか。しかし、放置すると寝ている彼女が起きてくるに決まっているので、抱いたり揺らしたりしてごまかした。あまり効果なかったけど。これを昼間ずっとやられていたとしたら、それはもうかなり嫌気が差すなあと彼女の苦労についての理解を深めたのだった。




そういえば、書き忘れていたが、表題のコリアンダーはプレートにつけあわせで乗っている中国野菜だ。香菜(ツァンツァイ)ともいうらしい。どくだみ並みにくさい。しかもこれが結構余っている。どうしよう。冷凍しておくか。