ありもしない自由の代償

最近は様々な用事が立て込んでいて、バイトをしている場合ではない。特に、論文を書くというようなことは具体的にきっちり何日あったらできるというものではないので、余裕をみてスケジュールをとっておきたいのが人情である。


そういったわけで、今日バイトが終わったあとに社長に月末の予定を確認された際に、少し多めにダメな日を言っておいた(この時、他のメンバーはおらず、事務所で社長と僕の二人きりだった)。すると「ダメな日ばっかりじゃないの」と責めるように言われた。


そう言われても困る。しかし、この「ダメな日」は余裕をみたいという心情で拡大して指定しているだけに、そう言われると後ろめたい気持ちになる。あちらはあちらの都合を言っているだけで、こっちにはこっちの都合があるのだから、何を言われようと知ったことではない。理屈ではそのように言える。しかし、これが実際にはなかなか難しいのである。そして、これは他のバイトメンバーにとっても共通する問題だということが普段の会話から見て取れる。


本職が忙しくて正直休みたいという気持の時でも、頼まれたら断れない、引き受けてしまうということをよくホモヨロさんが言い、同意を求めてくる。この時の心理は、「あっち(社長)も人手が無いと困るんやろうから、仕方ないから行ってやろう」という「配慮」を含んでいる。


もちろん、こんな「配慮」など雇用者の側からすれば気にすることではない。必要な時に欲しいだけの人間が集まればよい。それはわかっていても、われわれは、「配慮」を考えた上で引き受けてしまうのだ。ここで雇用者にとって都合のいいように作用している「配慮」はいかなるメカニズムなのだろうか。


仕事を断れない原因は「こういう時は仕事を断る」という線引きがきれいには引かれないということなのかもしれない。そして、これには、反対に、都合の悪いときは断れる――自分がしたいことをしたい時にはそちらを優先できるという選択肢を担保しておける――というメリットがある。きっちり何曜日の何時から何時までという形では働きたくないという望みを叶えるために、この線引きを曖昧にしておく。しかし、この線引きが曖昧であるがために、結局は仕事を断ることができず、至高の価値として確保しているはずの選択の自由などほぼ無効化されて、雇用主の都合の良いように使われることになる。選択の自由を行使する時には「後ろめたさ」という形で、なんらかの代償が払われていることをわれわれは感じている。この代償は何なのか。


なぜわれわれはこの代償を一方的に払わされているのか。表向きには、選択の自由を行使した際に代償が支払われるということは「無いことになっている」。われわれは「有る」と言うことができないようになっていて、「有る」のだということをうまく構築できないために、これは「無いことになって」しまう*1


うーん、こういうことをうまく論文にしたい。


「ダメな日ばっかりじゃないの」という言葉の裏には、「本当はなんとかなるんだろう?」という疑義が潜んでいて、それは実際その通りなのである。しかし、「なんとか」して、そのツケはわれわれ個人個人の私生活でかぶらねばならない。社長はそのツケをわれわれがどう処理しているかを知らないし、知る余地もない。この「ツケ」の分はこの仕事のために払っているものに間違いはなく、これはわれわれが搾取されているということに他ならない。

*1:構築主義的アプローチが有効なのは、構築されえないものを浮き彫りにするためではないだろうかと今思い付き的に思った。現実は全て構築されたものなのではなく、構築されえないものによってわれわれの生活は支配されると考えるべきなのではないかとか。