「正しさ」を共有することの中味

今日、バイト中に何か大切なことに気付きかけたのだが、何に気付きかけたのか忘れてしまった。仕方ないので思い出すことを期待してデータを取る。

今日は沖縄調査*1から帰って最初の引っ越しバイトだった。昨日の夕方に社長から電話がかかってきて決まった。

8時ちょっと過ぎに少し遅れて行くと、ヘメエレさんと社長がいた。奥さんがアイスコーヒーを運んできてくれた。奥さんがいるタイミングを見計らって、沖縄土産を渡した*2

社長は何か用事があって、家にいなければならないというので、今日はホモヨロさんとヘメエレさんと僕の3人で作業をした。ヘメエレさんはホモヨロさんの紹介で、2、3ヶ月前からこの会社に来るようになった人だ。ハマヤラくんは夏休みで石垣島に行っているらしいことを後に聞いた。昨日電話してきた時に、今日の作業について「港区で、ホモヨロくんとヘメエレくんと3人で行ってもらいます」と社長が言っていたので、ああハマヤラくんは夏休み中なのかなと考えていた。

資材や積み荷を載せかえるために、最初だけ社長も駐車場までやってきた。それから、2tトラックに3人乗って出発した。ホモヨロさんが運転をしていた。久しぶりだったので、ホモヨロさんと話すのを楽しみに思った。

港区までは結構遠い。海沿いの橋を渡る時、ホモヨロさんが社長の趣味の釣りについて話した。釣り番組かなにかの取材を受けて、今度社長がテレビに映るとか映らないとか。社長は釣り針の括り方一つ知らず、その都度誰かに聞くらしいとホモヨロさんが言う。もともと主任から聞いた話だろうか。ありそうなことだ。社長は釣りが趣味らしいが、そんなに行っているという印象を受けない。釣りに行く暇があったら仕事を入れそうだ。しかし、道具には金をかけているようだから、釣りを記号的に消費している人なんだろうなと思う。「格好は立派らしい」ということに関してはホモヨロさんも言及していた。

津守の近くのぐるぐる回る橋から木津川を渡る。

ヘメエレさんが交差点の信号待ちでタオルで顔を隠す。何かと思ったら、助っ人に行ったことのある会社の車がすぐ側にいたからということだ。ホモヨロさんもそうだが、こうしてバイトしていることを会社に知られるとまずいらしい。

今日の現場は「臭い」ということをホモヨロさんが強調する。「臭い」現場は珍しくないのだが、それでもあえて強調する。この現場は既に19日の日曜日に社長とホモヨロさん、ヘメエレさんで行っているらしい。住人の家族がゴミと要る物を選り分けて、ゴミだけを引き取るという仕事で、一日につき7万4千円もとっているらしい。なんておいしい仕事なのだろうか。

今日は台所周りをやるからといって、事務所を出る時にホモヨロさんがゴム手袋を用意していた。

現場は港区の市営団地の一つ。似たような建物が並んでいるので、一度ヘメエレさんが間違った敷地内に誘導して入れてしまった。細い道をバックで入れる。現場の部屋に近い方がいいからともう一度別の通りから入れ直したりもした*3

ホモヨロさんに遅れて現場の部屋に行く。1階なのでそう大変ではないように思うが「でも、臭いからな」とホモヨロさんは臭さを強調していた。入り口の小階段を上るともう臭い。家族の人が、中年の女性2人、男性1人いて、すでに作業をしていた。まとめ終わった荷物を玄関口に押し出してくるので、ホモヨロさんはそれを運び出しにかかる。僕も同じようにすればいいのだが、何となく気が進まない。現場が近くなると、作業にかかるのがものすごく面倒くさい気分に襲われた。行きの車の中で話している時は楽しかった。社長抜きの作業というだけで気分が違うのだ。

この面倒くさい気分はなんだったのだろうか。おそらく、一つには、どれくらいやれば終わりなのかわからないことの面倒くささだったのではないかと思う。二つ目は、この現場が終わって帰れるのがいつかを考えて面倒くさくなったのではないかと思う。

こういう面倒くささに襲われた時にはさっさと作業にとりかかるに限る。ごちゃごちゃしたものに溢れた現場、どこから手を付けたらよいかめまいがするようなゴミ屋敷がある。しかし、自分の目につくところからとにかく片付けていっていれば、他の人もその間によそのところを片付けていってくれているので、作業に没頭しているうちに終わりは見えてくるのだ。

この「さっさと作業にとりかかるに限る」という考え方は実はわりと上級者の考え方なのではないかと思う。さっさと作業にとりかかることで作業全体が進むのは、共同的な営みなのかもしれない*4

冷蔵庫の中を片付けるということが頭にあった。家族が選別するのを待ってそれを出していくというのは面倒だった。とにかく冷蔵庫をやってしまおうと思った。S寸の箱を作り、ビニール袋をかませる。ゴム手袋を用意し、タオルをマスク代わりに顔に巻く。掃除機が入っているプラスチックの衣装ケースの中に消臭スプレーがないか確認し、持っていく。「冷蔵庫の中は全部いって(※捨てて)いいんですか?」と家族の人たちに確認をとって作業した。まずガバッと開けて消臭スプレーをふりかけ、一旦閉める。また開けてスプレーをかけ、さっささっさと中味をビニール袋をかませた段ボールに移していく。このやり方は2、3年前に社長に言われたものだったことを思いながら作業したのだが、作業しながら、このインターバルはあまり意味がないのではないかとも思った。インターバルをしていても、中味を移した段ボールの方は開けっ放しではないか。

冷蔵庫の中味の片付けは今日の作業の最大にして唯一の難所だったはずだ。そして、汚れ作業でもある。それを買って出るというのは自己犠牲的な見上げた姿勢だと言えよう。しかし、僕は別にそんな立派なことは考えていなかった。僕は単に一つの作業に集中したかっただけなのだ。家族の選別を待って運び出すなどというまどろっこしいことをしたくなかっただけだった。狭い玄関に出されるゴミを3人でうろうろしながら拾いたくなかったのだ。

こういう作業は昔は大概社長がやっていたが、最近はハマヤラくんの作業になっている。「汚れ仕事は下っ端にはやらせない」ことになっているように思う。これは何か思いやりのようにも見える。しかし、「汚れ仕事」も状況によっては決して「嫌な仕事」ではない。むしろ、「マシな仕事」であるかもしれない。状況に応じて、そして、それをする当人の立場に応じて、一般的にはマイナスイメージを以て捉えられることも、主観的にはプラスであるかもしれない。そう考えると、上下関係の中で、「上の人間が下の人間のことを思いやってやっている」ことであり、「そのことを下の人間は感謝するべきである」と一般的に考えられていたり、考えなければならないとされていることというのは、上の人間にとっては別に思いやりでもなんでもなくて、そうした方が自分にとって都合のよいことを選択しているだけであり、また、そのすることが「一般的に」マイナスイメージを以て捉えられているがゆえに、下の人間を思いやっているということにできるという効果を生じさせることまでできて、いいことづくめなのではないか。

……というように考えると、下っ端の人間が抱かされたり、抱いてしまっている尊敬の念とか感謝の念というものは、実は権力関係の中で、上の立場の人間にとっては痛くも痒くもないたまたまそうなっただけのことが崇高に見えているだけなのではないだろうか。

冷蔵庫の中はぎっしり詰まっていた。おそらくものすごく臭かったのだろうが、マスクをしていたし、作業に集中していたのでそんなに気にならなかった。

中味は何が入っていただろうか。卵とか焼きそばとかうどんとか。幸い蛆がわくまでは至っていなかった。漬け物のパックなんかもたくさんあったように思う。やっかいなのは、口をくくったビニール袋の中でドロドロに溶けてしまっていて元が何だったのかまったくわからないものだ。こういうものは染みだして冷蔵室に張り付いていたりする。これの汁をズボンの裾にかけてしまって「あちゃー」と思った。

放っておかれた冷蔵庫の中味の末路は2種類ある。一つは既に述べたように、溶けてドロドロになった物。もう一つは乾燥してカチカチになったものである。そんなこと改めて言うほどのことかと思われるかもしれないが、次は何が出てくるかと思いながら中味を探っていて出てくるカチカチになったコロッケ、トンカツ、肉や餃子、その間を埋める溶けた物を見ていると、「2種類ある」と感じてしまったのだ。

冷蔵庫一台で段ボール箱3箱いるなあと考えながら作業をしていたら、後ろにもう一台、今作業している冷蔵庫より大きな冷蔵庫があることに気付いた。別に2台片付けることは嫌ではないのだが、腐った物が詰め込まれた冷蔵庫を2台も作った人間がいるということにうんざりする。

紫色に変色した「年越しそば」は何かそういう紫色の商品なのではないかと思った。草餅があるなあと思ったら黴びた巻き寿司だった。

80代のおばあさんの独り暮らしらしい。部屋の間取りは3Kで、かつては同居人がいたのだと考えられる。冷蔵庫も2台必要だったのかもしれない。おばあさんは今年の夏の異常な暑さにやられて部屋の中で熱中症で倒れ、病院に入院したらしい。幸い向かいの部屋の人が日常的な交流をしており、姿を見ないことから異変を察知したそうだ(と後に社長に聞いた)。おばあさんが入院している間に部屋に溢れた「ゴミ」を片付けてしまおうと家族が考えた。元気になったおばあさんが退院するのを医者に頼んで一日引き延ばして今日は作業をしたらしい。

通りすがる人が、どこの部屋の片付けかと聞き、ああやっぱりという顔をするので、この部屋の異臭は近所で有名だったようだ。

老人の独り暮らしだと部屋がとんでもないことになるというのはこの仕事で出くわす酷い部屋のパターンの一つだ。一人では片付けることができないのだ。とんでもないことになるパターンのもう一つに、いらないものを集める/捨てないということがある。このおばあさんはこのもう一つのパターンにも当てはまっていた。

台所周りは洗いざらいごっそり捨ててくれということだったので、戸棚や鈎棚も片付けた。流し台の上の鈎棚に使用済みの割り箸がごっそり積んである。何に使うつもりでこんなものを取ってあるのだろうと不思議に思ったが、おそらく「何かに使えるだろう」と思って取っていただけだ。他にも、スーパーのお惣菜とか弁当が入っていたのであろうパックが取ってあるし、カップラーメンのカップまで洗って置いてあった。

不思議なのは、醤油のペットボトルの口が何本も開けられていることだ。なぜ使い切ってから次のものを開けないのか。新品のものもある。他にもソースやお酢なども使いかけのものがそれぞれ何本もある。

流し台の下の棚には自家製のカリン酒やら漬け物やらがいくつも入っていた。カリン酒の中には変色したカリンが澱になっていた。漬け物も真っ黒になっていて無惨だ。一体いつ漬けたものなのか。自家製でこういうものを仕込む人なのだから、まめな人なのだろう。しかし、ここまでくるとまめさの悪循環だ。

「ここまで酷い現場は初めてでしょう?」と家族の人に聞かれた。こういうことはよく言われるが、こういう酷い現場はいくらでもある。

終わりかけの頃にホモヨロさんに社長から電話がかかってきたらしく、これが終わったあとにもう一件あるらしいとヘメエレさんが教えてくれた。げっそりする。みんなこういうのは嫌がる。

もう片付け終わって、台所の水道を借りて手と顔を洗った。外に出ると、ホモヨロさんが某宅配便会社のドライバーと喧嘩をしており、それをヘメエレさんが止めていた。トラックの後ろに某宅配便会社のライトバンが停まっている。一旦収まりかけたが、まだぶり返すので僕も止めに入った。

ホモヨロさんが突発的な喧嘩をしたのでびっくりした。社長がいたらしなかっただろう*5。社長がいたらしなかった。この抑止力はなんだろうか。

後で聞くと、団地内に配達に回っているのであろう宅配車がトラックの後ろに停まった。通るのであれば何か一言いうだろうと思ったが、何も言わなかったのでホモヨロさんは作業に戻ろうとした。すると、宅配車のドライバーが怒鳴ってきたということらしい。ホモヨロさんは「言い方があるやろう」と言い、ヘメエレさんもドライバーを宥める時に「でもな、あんたの言い方もあるで」と言っていた。

ヘメエレさんが「○○の営業所か?」と聞くと、ドライバーが「○×や」と言っていた。なぜそんなことを聞くのか。具体的なことを聞いて脅しをかけているのか。あとで落ち着いた時、ヘメエレさんに「〈某宅配便〉って、時間の縛りがきついんですっけ?」と話しかけてみた。某宅配便は時間内に配達しないとペナルティがあるというような話を聞いたことがあった。だから、ちょっとしたことでもイライラして怒って揉め事になるということがあるのだろうかと思った。僕はこのもめごとを社会的な要因に帰して忘れようとする会話をヘメエレさんに求めたのだ。

するとヘメエレさんは「○×の営業所や言うとったな」、「○×やったら俺のツレがおるから言ったればよかったな」と言った。どこの営業所かを聞いたのは、パーソナルな人間関係の繋がりを持ち出して、この場の関係を取り繕おうという意図があってのことだったのだろうか。揉め事を解決する手段としてパーソナルな人間関係を活用しようなどという発想は僕には無かった。僕にはこのような場面で持ち出せるパーソナルな人間関係が無いというだけのことかもしれない。しかし、ちょっと新鮮で、驚いた。ヘメエレさんの日常生活世界では、パーソナルな人間関係が社会的に読み替えられて応用されるのかと。

帰りの車の中でヘメエレさんが「〈某宅配便〉の軽(ライトバン)の運転手は仕事のできんやつや」と慰めなのか何のか、まだ思い出すと怒り覚めやらないホモヨロさんに言う。小口の荷物を配達する部署は会社の利益全体から見れば、儲けを度外視して営業の都合上設けている部署で、閑職であるということなのだろうか。

「しかし、こういうことは俺たちの仕事じゃあよくあることですよね」とホモヨロさんがヘメエレさんに言うと、ヘメエレさんも同意する。ヤクザとかは実際にはあまり難癖をつけてこないと2人が言う。2人は直接語らなかったが、普通の人たちがいろんなところでからんでくる仕事の様子が頭に浮かんだ。ヘメエレさんが、仕事先の一つがヤクザの事務所の隣で、そこは例外的に気を遣うと面白おかしい感じで話していた。

戻ったら、民間の収集業者と会社の近くのいつもの場所で落ち合ってトラックのゴミをプレス車にかませた。社長も来ていた。

ごはんを食べにいく。この中華料理屋には初めていった。2人はもともと近所暮らしだし「何度も行ったことがある」と言っていた。そうか、この人たちはここで生まれてここで育った人たちで、僕は極端だが言ってしまえば異分子なのだと感じた。別に当たり前のことだが。

2件目の現場は「リサイクル品を引き上げにいくだけ」ということなので、僕は行かなくて済むかなと思ったが、午後の予定を確認され、何もないならじゃあ一緒に行ってもらおうと言われてしまった*6

現場は近所の団地だった。2階の一番奥の部屋で、3DKだった。この部屋の片付けは明後日するという。明後日も呼ばれているので、面白かったらこの部屋のことはまた別に書こう。冷蔵庫、洗濯機(2槽式)、テレビ2台がリサイクル品だった。古い型の冷蔵庫だった。思えば洗濯機も2槽式だった。片付いたきれいな部屋で、よい印象を受けたのだが、慎ましやかな生活をしていたのだろうかとちょっと寂しい気持ちになった。

「リサイクル品を引き上げにいくだけ」だったら4人も行く必要はない。「(処分品の中からめぼしい物を)探りたいのだろう」とホモヨロさんとヘメエレさんが言う。なるほど、そうだろうなと思う。ホモヨロさん「リサイクルだけなら当日でもいいのに」、僕「そうですよね、探りたいなら一人で探りにくればいいのに」、ホモヨロさん「そうや」と話す。しかし、社長には一人で探りには行きたくないという気持があるのだろう。仕事のついででないとやりづらいという後ろめたい気持があるのかもしれない*7。そして、社長の「作業」がとりとめなく、なかなか終わらないので、リサイクル品を出してしまった後は、脇で箱詰め作業を始めることになり、ほとんど作業は終わってしまうのだ。

一足先にホモヨロさんとリサイクル品を業者に持っていくことになる。団地の駐車場から出た所で、60代くらいの男性に呼び止められる。何をしているのか、どこで作業しているのかと聞かれ、勝手に車を停めたらあかんと言う。ホモヨロさんが「すみません」とおざなりに言うと、「すみませんじゃない!」とその男性が怒鳴ったが、ホモヨロさんは無視して車を発進させた。

自治会長かなにかではないかとホモヨロさんが言う。ホモヨロさん「もう今日はもめごとはええわ(笑)」。きっと後で社長も言われるだろうとホモヨロさんと笑う。少しは言われたらいい、社長はいつも作業中の部屋の奥から出てこず、こういう周辺住民からのクレームの対応を僕たちがしていることすら知らない。

あとでヘメエレさんに聞くと、ヘメエレさんがこの男性とやりとりしたが、社長は最後まで部屋にいたのでやはり知らないままらしい。そういう社長の立ち位置をヘメエレさんも批判していた。

「ああいう人(自治会長と思われる男性)も必要っちゃあ必要やけど、なあ」とホモヨロさんは僕にも言ったし、ヘメエレさんにも言っていた。ホモヨロさんの中でひっかかったものが何かあり、そのひっかかったものの表現がこれなのだなあと思いながら聞いた。

作業が終わり、資材の積みかえなどもろもろが終わって事務所に帰ったら14時半だった。明後日のことを確認されて、みんな帰った。作業服がずっと臭かった。家に着いて、臭い作業服を全部洗濯機に入れて裸になったがやはり臭かった。


ところで、僕が何か気付きかけたが忘れてしまった大切なことというのは、自己犠牲的なことも実は自分に都合がいいからやっているだけで、権力関係や上下関係の中で発生する尊敬や感謝といったものには立場によって温度差があったり、意味合いが大きく異なったりするということだったようだ。そういうふうに、状況を読み解いていく視点が必要だと感じたのだと思う。

何かをこなす知識を得る。知識というのは、経験の中で知り得たことを「こうするのが正しいのだ」と再起的に捉え直せた時に知識になる。しかし、この「正しい」というのは何なのかを考えなければならない。「正しい」とは誰にとって「正しい」のか。もしそれが「一般的に正しい」ことなのだとする。もしそうだとしても、その「正しさ」の重みは状況とその状況における立場によって全く異なるかもしれない。「正しい」ことは「一般的に通用する」ことだが、その通用の仕方を検討するべきだ。ある集団で「正しさ」が共有されているとして、しかし、その「正しさ」の受け止め方は一様ではないのだ。

*1:調査で沖縄に行っていた。

*2:今回、どこに/誰に土産を買うかをずいぶんと考えさせられた。別に遊びに行ったわけではないのだが、「一週間沖縄に行く」というシチュエーションに何物も要求されないという気がしなかった。お土産を買って帰らないと居心地が悪い思いをするように感じていた。なぜだろうか。

*3:休憩時間に「だいぶ違うで」と2人は言っていた。彼らは一度作業をしている分、強く思うのだろう。

*4:「共同的とは何ぞや」と言われるかもしれない。ここでいう「共同」というのは、一見バラバラな作業が最終的には効率的に進んでいくということだ。別に、そうするべしという指示が出ているわけでもなんでもないのに、各個人がそうしている。「協同」とか「恊働」というと、大きな荷物をみんなで抱えている図が思い浮かぶ。作業の分担がきっちり決まっていて、それぞれがどう関連するのかまで全員が考慮しているようなイメージだ。しかし「共同」はそれぞれが自分の思うようにやっているが、結果的にはうまくいっているというイメージだ。うーん、これは一般的な「共同性」の定義と照らし合わせるとどうなのだろうか。

*5:あとで本人もそのように言っていた。冗談まじりではあったが。

*6:「何もないと、行きたくない場合も行けないとは言えない」という話をこの日ホモヨロさんとしたのを覚えている。

*7:こんなところでここまで書いて大丈夫なんだろうか。うーん。