一昨日の深夜アマゾンで注文した本は今日届いた。橋本治『ああでもなくこうでもなく4 戦争のある世界』(マドラ出版、2004)だ。シリーズ4冊目だ。カバーを取ったところの本体の色は前巻のカバーの色だ。ということは次の本体の色は黄色だ。というこは1巻の本体の色である黒がカバーになるとこのシリーズは終わりなんだろうか。どうでもいい気づき。
最近橋本治を読みたい気持ちが昔と比べて薄れている。昔は何を差し置いても手に入ったその日から読みふけっていた。でも今は読んでいても何か違うという感じがしてページをめくる手が止まってしまう。
僕が橋本治を読み始めたのは学部の1年生か2年生かのころだったと思う。それ以来橋本治の本はほとんど読んでいる。読み初めの頃はショックを受けて胸がギシギシした。胸をギシギシさせながらも自分はこれを読まなければ行けないと思っていた。
最初は難しくてよく分からなかった。それでも読んでいた。読まなきゃいけないと思っていたのだ。1冊1冊に僕に欠けているものが詰まっていると思っていた。だから僕は読まなきゃいけないと思った。
橋本治が書いたものを読むとすっきりした。自分の中の枠を壊してくれる感じがした。だから僕は僕のやるべきことをやらなきゃと思えた。自分の中の迷いに対して希望を感じることができた。
でも今年はどうもそんな感じじゃない。距離がある。のめり込んで読めない。
僕は僕のやり方を見つけてわからなければならないことがある。
橋本治がそれぞれの本でそれぞれの課題を読み解いていく過程に魅せられていたというところが僕にはあるのだと思う。
ああ、そうか。僕はもう課題の前で足踏みばかりしていた頃とは違うんだ。ようやく自分の課題を自分の力で解いていくようなところへ来たんだ。課題を解いていくことに踏み込めずにいた僕には課題を解いていく過程を見て惚れ惚れしていた、憧れていたのだ。僕は今その憧れを自分のものにしようともがいている最中なのだ。ついに今年はそういう年なのだ。さんざん遠回りしながらも僕は憧れて憧れてやまないものになろうとしている。その半ばまで来ているらしい。
ぼさっとしていたから気づかなかった。
でもとりあえず『ああでもなくこうでもなく4』は読み切ってしまおう。まだ憧れのものにはなれてはいないのだから、胸をときめかせたい。
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竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫、1988)
身体論は面白いなあと思った。やっぱりメルロ・ポンティ読まないといけないかな。
しかしそういう方向を突き進むと社会学から離れる一方、認知心理学(認知身体学?)みたいになってしまう。身体論からの広げていかなければならない。広がった先に実践コミュニティとかがあるのだと思うのだが、その間をつなぐものがわからない。「その間をつなぐもの」は僕が自分で作らなきゃいけないんだろうか。
何か先行研究はあると思うんだけど、今はまったく検討がつかない。はて…?。