「差別論」に関する覚え書き

今日の講義でまた差別論を一通り説明し終えた。まだ無駄な部分をそぎ落としきれてなかったりうまい説明の流れを作れなかったりで課題が多いものの、教えることはいろいろ気付きを与えてくれる。

ワクチンの限界について考える。ワクチンはどこか対症療法的な部分がある。いや、対症療法という言い方は正しくない。ワクチンは第一に予防だからだ。新しい差別が出てきた時に初めて予防のためのワクチン作りも始まる。対症療法どころか手遅れもいいところだ。

もう一つ、「ワクチン」のメタファーに残る違和感の問題。ワクチンは本当に予防なのだろうか?同化メッセージが送られる際に同化メッセージを無効化する言葉、「行為の対象化」を引き起こす言葉を全体に投げかけることで差別を無効化する。これは予防だろうか?きわどい気がする。

ここでは病原体が振りまかれたところですかさず病原体の効果を打ち消す作用をその場にいる人々の間に引き起こしている。これは予防だろうか?確かに各人の持つ抵抗力・免疫力を活性化することで起こりうる差別を打ち消している形だが、これは「ワクチン」とは別の何かではないだろうか?

佐藤裕の『差別論』にはマスメディアを通じたワクチンの集団摂取のメタファーも出てくる。これは「予防」という視点で理解しやすいのだが、マスメディアを通じて差別を無効化するワクチンを集団摂取すると言われても、一体どんな差別を想定してどんなワクチンが作られるのか想像がつかない*1

「ワクチン」のメタファーで説明しきれない部分と発展の可能性が佐藤の差別論には残されている。限界も見極めねばならないと思う。これを問題提起で終わらせるのはもったいなさすぎるし、本腰いれて発展させるよう頑張ってみようかなあ……。

*1:マスメディアについてはマスメディアそのものが差別を生み出す回路になってしまっていることの方が問題だ。マスメディア自体の位置付けを三者関係の差別モデルを手がかりに相対化していく必要がある。例えば行為の対象化という意味では「われわれ」がTVを見て一体何をしているかに気付かせるワクチンが必要だ。