関西反原発デモに参加してみて

  • デモにデビューする

今日は2011年4月16日(土)に大阪であった反原発デモに参加した際のことを書いてみようと思う。

これは僕が生まれて初めて参加するデモだった。具体的な行動に移すことにしたきっかけは4月1日の関西電力への抗議行動に参加した際のレポート(参考)にも書いたとおりだ。

原発に反対する」ということはあまりに大きな課題で、一人でいくら頭をひねっていても出口が見つからない。とはいえ、デモという得体の知れないものに参加するのは飛躍し過ぎのようにも感じるのだが、一度その飛躍の中に身を置いてみて見えてくるものを検討しようと考えた。

若いうちから運動に参加する経験を持っているつまは誘うともともと乗り気で、ちょうど仕事も午後から休みのシフトだったので2歳9ヶ月の子どもも連れて家族でデモに参加することにした。

  • 集合場所の雰囲気

保育所に子どもを迎えに行き、一緒に地下鉄で集合場所の中之島公園へ向かう。淀屋橋の駅を出て、橋を渡りかけるとデモの参加者が集まっているのが見えた。どれくらいいるのだろうか。2000人くらいかなと思う。少なくはないが、めちゃくちゃ多いという感じもしない(つまに言わせれば春闘でもないのにこの規模のデモは珍しいとのことだ)。

何となく子連れというのは気楽だ。一人だと寂しい気持ちや疎外感もあるかもしれないが、子どもと一緒だと散歩のついでという気分になれる。

橋を渡り切って公園の方へ入っていくと入口のところで知り合いたちが集まっていて拍子抜けする。ちょうど統一地方選の関係で釜ヶ崎不当逮捕事件があり、一部ではそのアピールもしているようだった。

集会の様子も見ておこうと中心部の人だかりの方へ向かう。その途中でもちょっとごぶさたしていた知り合い何人かと顔を合わせ、なんだ僕はこの場では全然アウトサイダーではないんだと不思議な気持ちになった。

もっとも、このデモの呼びかけ団体のことは全然知らないし、集まっている他の人たちのことも知らない。歩いているだけでいくつもの団体からビラを渡された。なるほど、普段から一緒に活動している仲間がいて、こういったデモだと仲間たちと一緒に参加することになるし、ついでに自分たちの活動のアピールもしておこう考えるのは自然な流れかもしれない。

「反原発なのに関係ないことを訴えるやつらがいる」、「自分たちの宣伝に反原発を利用しているだけ」というもっともらしい批判はこういったところから来るのだろう。僕もかつては運動に対して潔癖性だったので、そう感じるのも分からなくはない。

こういう場での疎外感は運動に対するアレルギーを刺激するのかもしれないなと思った。同じ問題意識を持つ人々が集まる場だと期待して来てみたのに、自分は場違いなのではと感じさせられてしまう。むしろ、ここに集まっている連中は内輪ノリで来ているだけで、この問題について真剣に考えようと人たちではないのではないかと思えてしまうということはありそうだ。被害妄想でしかないのだが、本人は真剣なほど気持ちが挫けると厄介かもしれない。

  • デモの第一印象

仮装をした人や楽器を演奏している人などもいて、雰囲気に酔って子どもは大はしゃぎしていた。子連れで来ている知り合いもいたし、他にも子連れで来ている人の姿は少なくなかった。人数が人数なのでゆるくて楽しい雰囲気になっている。つまとも合流して、知り合いの近くで一緒に歩くことにした。

デモの進行を全然知らないので何となく流されるまま動く。先頭から4列縦隊を作りながら順番に出発するように指示が出される。公園の入口近くにいた僕たちはぐるっと回ってかなり後ろの方につくことになった。

人の間隔が迫ってくるとはしゃいでいた子どもは退屈し出して抱っこをせがむようになる。肩車と抱っこはもう覚悟していた。14kgの荷物を抱えたちょっとしたハイキングのつもりだ。

16時10分にデモはスタートしたのだが、僕たちが公園から御堂筋に出られたのは40分くらい経過してからだった。

警察に誘導されながら車道を歩いていくのだが、これはなかなか気持ちよかった。車道を歩きながら見える景色は普段と違って面白い。一体どれくらいの長さになっているのだろうか。少なめに見て2000人が4列縦隊で1m間隔で歩いているとしても500mの長さになっていることになる。デモの時の信号待ちというのはどうなっているのだろうか?最後尾に近い僕たちは交差点で警察官に急かされることはあっても停止を迫られることはなかった。

  • 歩きながら考えたこと

ゆっくりした流れでデモは進む。デモなんてどれくらいアピールになるものなんだろうと疑問だったが、これだけ長い列が続いているとそれなりに目を引くだろう。歩道の人たちや車を運転する人たちは何を思うだろうか?僕は正直なところ「何も思われないんだろうな」と思った。

参加していない人にとって、関心のない人にとってデモの隊列などさして関心を引くものとは思われなかった。歩いている自分からしてそんなに特別なアピールをしているという気はしない。拡声器やスピーカーを使ってずっと音楽を流したり、しゃべり続けている人もいたけど、選挙カーの演説程度にも関心をひくものではないだろう。

デモは何より参加する人たちにとって意義のあるものなのだと思った。個別の主義主張や立場は違えど、とりあえずこの一点では思いを同じくする人がいるのだという事実を確認するための時間と空間ということなのかなと。

理屈を戦わせれば折り合えないことはいくらでも出てくる。しかし「原発には問題がある」と感じること自体は、集まってデモをしてみんなで歩くことで共有することができる。理屈を超えたところでつながるための工夫が必要なのだ。

原発というと「左翼の運動」だと思われがちだが、デモの隊列の中には日の丸を振っている人もいたという。

デモのペースで歩くとなかなか進まない。中之島からなんばまでというともともとそれなりに距離はあるのだが、すごく長く感じられた。もう心斎橋くらいまで来ただろうと思っていたら本町までしか来ていなくて最後まで歩けるのか心配になった。

子どもは一切歩こうとせず、ずっと抱っこか肩車をしていた。前の方でシャボン玉を飛ばしていて、それを「パッチンしたい!」と手を伸ばして果たせずに悔しがってわめいていた。

なんばが近づくと車も人も多くてデモも凄く目立つ感じがする。近鉄の駅前の交差点あたりだっただろうか、トラメガでデモの批判をしてくる人たちがいた。聞く所によると在特会のメンバーで「電気なしで暮らしてみろ!」とか煽っているらしい。若い女性も叫んでいた。わざわざこのためにトラメガを用意してやってきたのかと思うと笑ってしまった。

  • デモの終わり

解散場所については告知されていなかったのでゴールが分からないまま歩き続けた。高島屋の近くからぐるっと曲がって湊町の公園まで行ってそこがゴールだった。呼びかけ団体の人なのだろうか、最終的にデモの参加者は4000人になったと教えてくれる。時計を見るのを忘れていたが、18時半くらいにはなっていたのではないだろうか。

公園に着いたら子どもがおしっこに行きたがる。用を足させるといつまで経っても収まらない。おむつはしていたのだが、肩車されていたせいか我慢していたのか驚くほど長いおしっこをしていた。おしっこが終わると他の参加者の小さい子どもと一緒に公園を走り回って遊び出した。子ども同士は見知らぬもの同士でもあいさつもせず一緒に遊べるからすごい。

みんなでどこかご飯でも食べに行くかと思ったのだが、なかなか動き出しそうにもなかったので僕たちだけ先に食事に行って帰ることにした。歩きに歩いた後になんばの居酒屋で飲むビールがおいしかった。iPhoneのマップで歩いた距離を出してみたが、4kmちょっとというところで、思ったより歩いていない感じがした。2時間以上かけて歩く距離ではないけれど。

  • デモは何のためのものか

初のデモ参加の経験はもともとレポートとしてまとめるつもりだった。しかし、実際に参加してみたデモはあまりに「普通」のことに感じられて、前回ほど書こうというモチベーションが高まらなかった。

デモに参加して分かったことは、既に書いたように、デモ自体は何か対外的な力を持っているものというより、参加者自身が「一緒にデモをした」という事実を共有し、身体的な経験を元にしたゆるいつながりを得るためのもので、土壌を耕しているようなものだということだった。

「この規模のデモをマスコミは伝えようとしない!」という不満もTwitterではよく見かけるのだが、対外的にどうとか、外部からの評価の有無などあまり期待しても仕方ないのではないかと思った。

大きな問題はみんなで考えなければ解決できない。みんなで考える時間を持つための一番簡単な手段がデモなのかもしれない。