一部の家で起こりうること

今日、現場に向かう車の中で、ハマヤラくんと話しているうちに、このバイトに対する自分の意識が変わっているのを感じた。前回、前々回あたりで書いた「労働概念」云々の考えがあってから、僕個人の生活とはどこか距離があったこのバイトを地続きで感じるようになったようだ。


正確に言うと、僕は仕事と生活を分けて捉えていたが、おそらく他の人は地続きで捉えていて、これまでは他の人と僕との意識とのズレ――違和感があったのだが、それが薄くなっている感じがして、それはバイトを「日常的なこと」と捉えるようになったためだったと考えられる。


もちろん、もともと「日常的なこと」であったはずである。相対的な程度の問題に過ぎないのかもしれないが、僕は仕事と生活を別々に捉えていた。それは「違和感があったから」だ。ところが、「違和感があったから」というのが、原因であるのか結果であるのかは実は良くわからない。違和感があったから日常的なことではなかったのか、別々に捉えていたから違和感があったのか。とても地続きでは捉えられないほど隔絶感があったのか、地続きで捉えない僕の意識が隔絶感をもたらしていたのか。


かつての僕は「毎日この仕事をする人の感覚」で捉えていなかった。今も、「毎日この仕事をする人」ではない。しかし、かつて同じバイトだったハマヤラくんが固定給となり、僕に仕事が来ない間も固定給で毎日働いているハマヤラくんの生活に思いを致すようになると、「毎日この仕事をする人の感覚」がわかり、その人たちと同じ目線で現場の物事を見られるようになったのだと思う。


最初の一ヶ月、固定給を経験していたホモヨロさんにはその感覚がわかる。かつてのアカサタくんやハマヤラくんは毎日のように呼ばれていたため(時期によっては呼ばれる頻度が固定給の場合並に高かったため)、この感覚を薄々持っていたのかもしれない。そして、僕も、ようやくこの感覚を持つに至ったのだと考えられるだろう。


同じ目線で見られるようになると、いつも「どうして今このタイミングでこの話をするのか」とか、「どうして同じ話を繰り返すのか」と感じていた発言のその理由が飲み込みやすい。いや、理由を飲み込みやすいというより、そういった発言をおかしなものだと感じなくなった*1
4年近く僕は違和感を持ち続けていた。この原因を僕個人の内面ではなく、構造から明らかにしたい。構造の理解。違和感の解消から遡求した構造理解?この違和感にはこの仕事の事情が数珠つなぎになって繋がっている。仕事の形態と、労務管理から帰結する人間関係の形態がある。


この仕事がどういった仕事であり、どのように労働力を必要とし、そのためにはどのような人間関係であることが望ましいのか*2。そして、その人間関係は望ましい形になっているのか。なっているとしたらどのような理由からか。なっていないとしたらそれはどのような理由からで、それはどう処理されているのか。




ところで、今日は引っ越しだった。定年間近*3の公務員一家の引っ越し。一軒家から一軒家への引っ越しだった。


当日まで未整理の荷物があってうんざりした。どれが運ぶもので、どれが処分品かをはっきりさせていない引っ越しはうんざりする。「別に今の家で充分じゃないか」と思ったが、引っ越し先を見ると「老後はこっちで過ごした方が気持ちいいかもしれないな」と思った。


引っ越し先は目の前に大きな池があって、小島もあって緑が生い茂っている。狸が出るという風評もあるらしい。それに比べ元の家は、同じ一軒家と言っても狭い路地を3回折れ曲がった袋小路にあって、隣家とのスペースもほとんどなくて、新居の開放感がない。


荷物の多さにうんざりしながら旧宅の荷物を出していたら、僕の実家もこんなものかもしれないとふっと思った。2階建ての僕の実家の階段の片隅の3分の1ほど、はいろんな荷物が下から上まで積み上げられている。子どもが何人かいる一家で、子どもが学校教育を終えるかという自分には、なんやかやの積年の荷物が増えてこんなことになる。


スペースを見つけては何かを積み上げている実家の有り様を、家を出てからは徐々に異様に感じるようになった。しかし、あの異様さは、一部の家では、起こりうるべくして起こるようなことなのだということがわかった。


3階建てのこの旧宅には地下室がある。4畳半くらいあるだろうか。本棚に本が雑多に溢れている。これを一週間後に処分品として出さなければならない。嫌だ。




中途半端にデータもつけた。


僕は人間関係に躓いている時間が長い。躓いているという言い方はあまりよくないか。人間関係に気を引かれている時間が長い。僕はそういうタイプのフィールドワーカーなのかもしれないし、今まではそうだったというだけかもしれない。今後、関心を広げていけるかもしれない。


参与者の自分と観察者の自分とがある。観察する場合は、集団内の相互作用を見るというのでもない限り、参与しない方がいい。「参与観察」の「参与」とは、集団内の相互作用に埋め込まれることで、その場合に観察するのは集団内の相互作用の有り様だ。


何か、固定的なものを観察するのであれば、参与する必要はないし、参与に随伴して観察するのだとしても、認識・記述においては参与というバイアスを消去しようとする。消去するべきだ。それはそもそもの目的がそうだからだ。だから、そもそも参与しないやり方をとるべきだ*4


フィールドワーカーとしての自分と研究者としての自分は違うのだという話を何日か前にトップページに書いた。参与者であることと観察者であることは違うし、それらと参与観察者はまた違う。参与観察者は何を見るのか。見ているものはいろいろあって、しかし、参与観察が何の観察に適しているかと言えば、集団内の相互作用に埋め込まれた存在として、集団内の相互作用を明らかにすることだ。


参与観察者でありながら、僕の中にはいろんな自分がいる。アウトプットの形は、いろいろいる自分の中のどれに特化させるかで異なってくる。いろいろいる自分のどれに特化させてアウトプットさせるかを先に考えると、インプットの形も変わる。それぞれの自分には、それぞれ対応する「相手(社会)」があるのだと考えられる。どの「相手(社会)」向けの自分で事を一貫させるかという問題なのか。


二つ以上に分化した「自分」が自覚されるということは、固定的な「相手(社会)」像が自分の中に作り上げられたということを意味する。相手がわかっているからこそ、自分のあり方も決まる。「相手」像が明らかになるということは、「社会的になった」ことを意味するのかもしれない。しかし、その「社会」について「社会的になった」だけじゃないのか。そして、こうなると「自分」を「社会」に合わせるということもできるようになる(その道筋が開かれる)。


(あー…、なんか、僕の関心というのはそっちの方向に偏るのだねえ。今日はもうやめよう)

*1:だから、その理由・動機がわかるようになった。つまり、違和感がないことから、その理由・動機を説明可能になったということで、理由・動機というものが「これこれしかじかのものである」と把握した上で、飲み込んでいるわけではない。なんかわけのわからないことを書いてしまったが、僕は理解というものが訪れる順序を気にしている。理解したから違和感を感じなくなったのか、違和感を感じないから理解したということにしているのか。

*2:誰にとって望ましいのかという視点も必要だ。

*3:定年間近ということはなかったか。お父さんは50代後半だと思う。

*4:とか頭でっかちにとりあえず書いてみる。