労働時間の捉え方

こないだのところの続きの片付けをやった。廊下のプラカードのほとんどが記憶になかったのは、僕が関心を持った「共同生活のルール」について書いていた部分が、実はそんなに多くなかったからだった。その他は、災害時や火災時の対応のような危機管理についてだった*1


仕事が終わったあと、さっさと日当をくれればいいものを、電話をかけたり、世間話をしたりするのが鬱陶しいと感じていたが、なんか、社長なりに、気分が盛り上がったり盛り下がったりしつつ、次何しよっかなと思案しているのだと思って眺めると面白い。


今回のアパートはまだまだ片付ける部屋が残っている。これらについて、うまいこと交渉を持ちかけて依頼をもぎ取ろうと社長が休憩中に言う。ああそうやなあと主任と話している。しばらくして、また同じことを社長が言う。前は、どうしてこの人は同じ話を何度もするのだろうと不思議に思っていたが、今回の場合、「交渉をする」というテンションを盛り上げるために、本人の中で交渉の意義を再確認する行為だったのだなとわかった。いやあ面白い。


それから、今日は依頼主さんに処分品の収集の立ち会いをお願いして、早く帰ろうという話だったのだが、そうはいかなくなった。当日になって依頼主さんが追加した処分品が多すぎて、プレス車を折り返さねばならない危険が考えられたため、やはり立ち会うことになった。そして、実際、一度ではかみ切れなかった。
しかし、立ち会ったおかげで次の依頼の交渉を、プレス車との兼ね合いも含めてその場で決めることができて、「結果的によかったね」と社長は言っていた。ひいき目に見ても段取りの失敗だと思うのだが、まあ結果的に見ればそうだ。誰に取っての「結果的」なのかは考えなければいけないが、「場当たり的」といって悪ければ、現場で起こる予期しない問題に臨機応変に対応していく結果として、「結果的によかった」オチに持っていこうとするのが人情かなあとか思った。


そして、たまたまそうなったからって、段取り失敗した責任が帳消しになると思うなよと思うのも人情だ。場当たり的に対応するから、結果オーライのオチでまとめようとするし、結果オーライのオチでまとめようとするために、反省しないという悪循環をする。しかし、まあ、現実的には人間なんてその程度にしか合理的じゃなくて、その程度には合理的であって、「合理的」が成り立つ要素とメカニズムについて考えるのは面白いなあと思った*2

*1:そういうことと共同生活のルールが併記されることの意味も重要かもしれないが。

*2:今回のカルチュラルハウジングはデータではなく、既に解釈・分析に入りかけている。データとしては二流だ。うーむ。まあ、「焦点化されたフィールドノート」という考え方もあるにはあるが。