キーワードは射倖心

思いがけない幸せが舞い込むことを期待する気持ちを射倖心という。ギャンブルは一般的に射倖心をあおるものである。よって射倖心をあおるものはギャンブルである。などと変な三段論法を使ってみたがあまり意味はない。

社長の宝探しはまさに射倖心に火がついた状態なのだなあと思った。毎日仕事でギャンブルやってるようなものなのだから興奮してたまらんだろう。しかも損はしないし、それで生活は間違いなく豊かになるのだから結構なことである。せっせとあさって段ボールに詰め込んだ着物や壷、1,000円で買いたたかれるかもしれないものが(裏を返せば1000円にはなるということだが)、ひょいと化けて何万も、何十万もするかもしれない。そういう期待を胸に処分品の山を漁るのはたまらない気分だろう。

「これが忘年会の予算になる」とか、「細かいものでもバカにならない」とか、なんだかんだ自己正当化の文句を吐く。かつて僕はこれを堅実さだと思って勘違いしていたのだからあきれたものである。

今日、現場で見つけた古い切手を持って帰った。調べた所によると、現在、切手蒐集は流行っていないので、高い値段はつかないことや、昭和30年以降の記念切手は発行数が増えて市場在庫が溢れているということがわかった。1枚だけ、1,000円ちょっとするらしい1955年の10円切手があったが、市場の値段はついても売れるかどうかは別らしい。

スタンプショップに持っていくのもおっくうだ。チリも積もれば山になるというから、ため込んでから持っていくならスクラップ交換するような意味でリスクを減らすことはできる。さらに、化ける可能性もなきにしもあらずだ。ああ、なるほど、社長がやっているのもこういうことなのか。

前に記念硬貨を見つけた時、コインショップに持ち込むかどうか迷ったあげく、銀行で普通の硬貨に交換した。これも面倒くさい。1個2個ではやってられない。やはりため込んでからか。

射倖心と手間とを天秤にかけると、射倖心は手間に負けてしまう。みんな、現金が出て来るのがよいと言う。きっとそういうことなのだ。よくギャンブルについて「一度勝ったらまた勝てると思ってしまう」と聞かされる。僕も一度、骨董品が大化けする経験をしたら火がつくのかもしれない。

かき集めた物を自分で骨董屋に持っていくかどうかはその品物が金になると確信している場合なのだろう。逆に、他人に行かせる場合はクズである可能性が高いと考えている場合だろう。期待して持っていって、安かった場合の落胆を回避したいのだ。射倖心と手間を天秤にかけ、手間が勝つ場合は他人に押しつける。問題は単なる損得だけではない。クズをマヌケづらしてのこのこ持っていく苦痛を他人に押しつけているのだから始末が悪い。

僕だって、射倖心と手間を天秤にかけるところまではいくのだから、射倖心があおられるのは無理からぬことかもしれない。しかし、ギャンブル熱が高まるあまり、かなりのところで社長の目は曇り果てているのではないか。

この1年というもの、作業人員が減っているのに、その対策を真剣に考えていない。危機管理が疎かになっている。むしろ危機意識が抱けなくなっていると見るべきかもしれない。常駐で雇った人はあまりの待遇の酷さに1ヶ月で抜けた。バイトも2人申し込んできたが、仕事のわからない新人に大して仕事を教えもせずに気分次第で物をいうだけだった(2人ともいなくなってしまった)。目の前の骨董品を発掘することと、換金することしか考えられなくなっていると言っても過言ではないのではないか。

なんだギャンブルに狂ったオヤジだったのか。

なんか鬱陶しくなってきた。今日の切手を、一度試しに、もののついでにでもスタンプ屋に持っていこうと思っていたが、捨ててしまおう。ギャンブルに熱を上げるのはいいが、周りの人間に迷惑がかからない範囲でやって欲しいものだ。