延長コードの秘密


昨日は体調が悪くて昼寝したら夜に寝れなくて困った。4時半くらいまで起きていた。起きたのは7時15分だった。一昨日のシチューを温めなおし、4枚切りの食パンを焼いて食べた。

7時15分だとやはり少し遅くて、寝ぼけたまま作業着に着替えることになる。

昨日は絶対雨が降ると思ってチョイノリにカバーをかけた(のだが降りもせず何となく腹が立つ)ので、カバーを外すのが面倒で自転車で行くことにする。いや、本当はカバーを外しているとチョイノリでは間に合わないくらいの時間になっていたからだ。うちから会社までだと実はチョイノリで行くより自転車で行く方が早い。原付と違って自転車は一方通行が無いし、信号が無くても道を横断してうまく連結していけば信号に引っかからずに済む。ぶっちゃけ少々の信号は無視できる。自転車に免許無し。

アカサタくんでも来てないだろうかと期待したのだがやはり僕だけだった。前の仕事が実に半月前で、それはつまり今月は会社としても仕事が少ないということで、仕事が少ないということは大人数を要するような仕事も無いということだと思うのだと思う。

仕事が多かろうと少なかろうと社長と主任2人の人間にかかるお金は毎月同じだ。大きな仕事でも何日かにわけてやればいい。4人で一日で済まそうと2人で二日かけようと作業量は同じだが、前者では2人分人件費がかかってしまう 。

新聞を眺めていると、社長が「昨日は結局どっちが勝ったかな?」と聞いてくる。スポーツ欄なんて完璧スルーの僕にそんなことを聞かないで欲しい。阪神かなあ、今さら阪神が勝とうと負けようとどうでもいいじゃないかと思いながらスポーツ欄を見るとダイエーとロッテのことしか載ってなくて困る。黙って新聞をテーブルの上に広げて社長が自分で確認するのを待った。「ロッテだね」と言う。何だパリーグのことか。ああ、阪神の相手がどこになるかっちゅう話かとわかった。

主任は寝過ごしたらしく、社長にモーニングコールをかけられていた。早よ来てくれと思う。2人っきりは嫌だ。

下見の紙を入れたファイルが透明で、ファイル越しに透けて見える紙が白い。ファイルが白い時は引っ越しで、ゴミ出しの時はファイルが黄色なのだ。少し嫌な気持ちになる。

現場は阪神高速に乗ってはるばる西淀川区まで行くらしい。社長の運転するライトバンの助手席に乗る。主任は軽トラを運転する。軽トラの荷台には台車が2台載っている。文化住宅の2階から1階へという引っ越しらしい。こういうケースは前にもあった。歳とって2階ではしんどくなった老人が1階へ移るのだ。

しかし、台車が要るというのは不可解だと思っていたら、2階建てのセイタカワダチ荘(仮名)という下宿屋から同じ並びだが30メートルくらい離れたところにある1階建ての文化へ移るということだった。

セイタカアワダチ荘の1階がどうなっているのかは知らないが、2階は2室あった。アルミのドアを開けると左手に「くつを脱いで上がって下さい」という真新しい張り紙があり、足下には靴やらつっかけやらが何足か並んでいる。急な階段を上りきった左手が依頼主さんの部屋で、もう一歩進んだ左手にもう一室の入り口があり、目の前が共用のトイレの入り口だ。廊下は2メートルもない。

車の中で、「今日は箱詰めからやる」と聞かされて、ああ面倒くさ、まあ仕方ないけど面倒くさ、とやる気のないことを考えていた。

部屋に入るとむわっとし尿の臭いがする*1。ネコか。それとも本人か。荷物の量は少ない。本人は入院中らしい病院の職員の女性が2人見に来た。

とりあえず箱を作る。詰めるのはお二人に任せるとして、とりあえず出しやすいものということで押し入れの中の布団とか衣装ケースから出していく。布団はビニールでパッキングされたものが3つあった。パッキングしてあるということは普段使ってなかったということだろう。

布団は奥の部屋(4畳半の台所と6畳間。奥の部屋というのは6畳間。押し入れは4畳半の方に付いている)にもあった。赤い敷き布団が一つ。他に布団がない。枕もない。寝具のバランスが悪い。何かいびつだ*2

やっかいな荷物は、小さな水屋、洋服ダンス、旧式の冷蔵庫*3があった。テレビが無駄に大きい。14型で充分じゃないかというのは学生の発想だろうか。テレビは木目調のガタガタのテレビ台の上に載せてあった。

奥の部屋のカドに洋服ダンスがあり、その隣りに鏡台がある。その横に膝くらいの高さの整理棚があり、さらにその隣りの反対側のカドにはテレビ台と同じような台の上に腰くらいの高さの台が重ねてあった。こういう重ね方をしてあると部屋が雑然として見える。コマゴマしたものが多いと運ぶのも面倒。重層的雑然構造。

途中で社長が下見で抜けやがった。現場が福島区と近いので行くことにしたようだ。「30分くらいで行けると思います」と電話で話していたので、1時間半は戻ってこないということかおのれ、と思った。

崩れかけのスダレとか、すり切れた畳の上に敷かれたゴザとかビニールシートとか、部屋に張られた切れかけの洗濯ロープとか、何のためにあるのかよくわからないベニヤとか、冷蔵庫の下に敷いてあった板とか、これはもうゴミだろうよというものがいっぱいある。しかし、本人がいないので捨てていいのかどうかの判断で迷う。

ゴザとビニールシートはピンが付いていて扱いにくい。新居の畳は新しいやつだし、これは捨ててしまってよかろうということになった。スダレは新居でも使う可能性が考えられたので残した。洗濯ロープは、これをまだ使おうという人はいないと期待しながら捨てた。よくわからんベニヤ板はよくわからんがゆえに残した。冷蔵庫の下の板は捨てた。

コマゴマしたものが多くて面倒くさかった。2人でやるので二倍面倒くさく感じる。大体片付いて、あとは掃除機かけるくらいかなあというところで社長が戻ってきた。社長が掃除機をかける。

ヒマになったのでどんなトイレか見てみたらめちゃくちゃ普通の和式便器があった。共用のトイレなのに普通の一軒家のトイレみたいだ。玄関となる扉も単なる引き戸だし、プライバシーなんかないなあと思う。こんなところではセックスできませんよ。それともする(した)んだろうか 。

病院の人が再びやってきて確認をする。電灯は新居に持っていくというので外す。ホコリがもの凄いので外に出て、ほうきではらう。電灯の傘はマジックリンで洗う。主任が洗う。洗う前にホコリを落とさんことにはどうにもならんといって主任も降りてくる。傘を固定していないとやりにくそうだったので手を貸す。

傘のホコリが大体とれたので電灯の本体のホコリ払いを再開する。コードを持って吊るして払う。そしたら何故かスルッと電灯が落ちてアスファルトにダイブし、電球があっさり割れた。

昔の電灯は細い鎖が付いていて、その鎖で電灯を吊るす。今時の電灯はコードが太く、コネクターにも仕掛けがあるのでコードだけで吊るす。しかし、ここの電灯は今時の電灯なのに鎖で吊るしてあった。鎖で吊るした上で電灯からのびているコードと天井のコンセントは、妙な延長コードを介して接続されていた。

僕は何も考えずにその延長コードごと外してしまった。奥の部屋の灯りは裸電球だった。カチッと捻って付けたり消したりするやつだ。その延長コードは裸電球を吊るす際に用いるものだった。

なぜそんなコードを残しておくのか。今時の電灯のコードでそのまま吊るせば、わざわざ細い鎖を都合する必要はないのだ。

電球を割ってしまった時、しまったと思った。謝んないとなあと思った。しかし、不可抗力というもんだとも思う。割れる瞬間を主任が見ていたので、社長には主任が言ってくれたようだ。社長の「ああ、そう」という感じの特に気にしているようでない返事が台所の窓越しに聞こえた。

結局謝らないまま昼食をとり、帰ることになった。途中、役所に寄った。一人車の中で考えていた。なぜ割ってしまったのか。不注意と言えば不注意だ。でも不可抗力というもんだと思う。不可抗力とはいえ、僕の責任ではあるのだから反省というものはしなくちゃと思う。

しかし、謝るのは嫌だ。謝るのはしゃくだ。そもそも反省とは謝ることなのだろうか。反省とは同じ失敗を2度繰り返さないためにその原因究明と対応策を前向きに検討することでないのか、ということにする。

では、なぜ割ってしまったのかと考えると、すでに書いたように、延長コードを意識していなかったからだ。なぜ意識していなかったのかといえば、「普通そんなものは使わない」からだ。「今時の電灯」にそんなものは必要ないからだ。

ところがこの家では電灯は今時のものでも、住んでいる人間の意識が道具の改良についていっていなかった。奥の部屋の灯りはなぜ裸電球だったのか。今時の電灯を買えないくらい貧しかったからか。そんなバカな。奥の部屋の灯りが裸電球だったのは、この部屋の住人の意識が裸電球に馴染んで停滞していたからだ。その停滞は台所の「今時の電灯」に見られるように多少の動きはあったことを伺えるが、裸電球じゃあるまいし必要の無い延長コードを残したままにしてしまうところにやはり後遺症が残っていた。

大筋は同じでも他人は自分では考えないようなことをやっているかもしれない。特に年齢の開きはくせものである。というところで反省は終わりだ。不可抗力なので反省はするが謝ったりはしないのだ。



今日は別に何の変哲もない仕事だったのに、カルチュラルハウジングを書いておこうと思った。前のカルチュラルハウジングがあんなだったので、早く「本当のカルチュラルハウジング」をスタートしなければ、再開しなければという気持ちが疼いた。

何の変哲もない仕事だったが、何の変哲もないことを丹念に描くことで普段意識しないでいることを浮き彫りにしてしまうのだがエスノグラファーというものではないか。エスノグラファーの技量は書くことを通して磨かれるのだと思う。僕は書くことから始めなければならない。書きたくなる観察力を鍛えなくてはならない。

僕は参与と観察と記述を分けてはいけない。そして、行きたくてしょうがないフィールドへ行って、書きたくてしょうがないことをたくさん書けばいい。書きたい、気づきたい、気づくために書きたい、書くために気づきたい、分けてはいけない。分けてはいけないのだ。

*1:関係ないけど「し尿」の「し」はどういう漢字か知っていますか。「しにょう」と打って変換キーを2回押してみると、うへっていう感じの漢字が出てきて嫌になりました。やんなきゃよかった

*2:考えてみれば、このし尿の臭いからして、普段使っていた布団はし尿でダメになったから誰かが捨てたのだと書いていて気づいた。

*3:緑色の冷蔵庫と言えばわかるだろうか。わかるのだろうか?