『方法としてのフィールドノート』のノートの加工(データの加工)の部分を読んでいたのだが、今からそんな念入りなノートの加工やってて間に合うかいとうんざりした気分になった(自分が悪い)ので、一章飛ばして「民族誌を書く」という章を読むことにする。
僕は基本的に物語を描いていけばいいのだということがわかって気が楽になった。なんか、「目的」とか「方法」とか「問題の所在」とか「先行研究」とかいった、定番の「書かなければいけない」みたいな章立ての中味がある。しかし、そんなんも物語りをする中で展開していけばいいのだ。
そんでもって、やはりエスノグラフィーすることにおいて、最終的な結論なんて最後まで出ないのだ。書きながら考える、書きながら解釈が広がっていくという、プロセスを通じて帰納的に出来上がっていくのだ。
とにかく物語を描いていけばいいという理解をしたら楽になって、本文を書き始めた。
たとえば「方法」みたいな節がある。もう自分が飯場でフィールドワークを始めようと思ったきっかけから書いてしまう。それから寄せ場で仕事を探すこと、働いたこと、日雇い仕事ができるようになっていったことを書いていく。これは研究の「背景」を説明することになっていく。そんな感じで書いていくことにした。
もう知らない。