後期初の授業がある。2限だった。腹減っていた。
前期の成績表と受講届けを貰う為に昼休み明けまで学校にいた。ついでに後期博士課程の過去問題をコピーした。
一度学校に来るとなかなか帰りがたい気持ちになってでも居座ったところで別に特別楽しいことなどないのでさびしさに胸をきしませながら帰ることになる。
帰る前に図書館に行って次回の授業に関係してマートンの『社会理論と社会構造』の一部をコピーする。
またぞろコーナンとか日之出書房とかに行ってしまう。うろうろする。エンジンオイルを買う。これでエンジンオイルの交換ができる。明日以降で雨が降っていない日にやろう。楽しみだ。
既にただの日記だ。フィールドノートはどうした。
***
22時40分、やっと『ああでもなくこうでもなく4』を読み終わる。足掛け3日もかかった。後半がきつかった。イラクの話ばかりでうんざりした。毎章同じことを言っている感じで疲れた。
ずっと気分が悪くてなんだろうと思っていた。読み終わったらすごくすっきりした。ふう。
***
茂呂雄二編著『状況論的アプローチ 実践のエスノグラフィ』(金子書房、2001)を読むことにする。しかし前半の理論編は読んでも毛ほどの役にも立たないだろうと考え(というよりはもうつまんないと思うものをがまんして読むなんてうんざりだ)、「第?部 フィールドからの報告」から読むことにする。

「5章 漁業者の生態学的な認知 豊島からの報告」(澤田英三)
延縄漁、位置取り
労働生活と社会生活
うーん、認知の話かあ…
認知、学習の話。読んでいて凄く面白い、心躍るような記述がいくつかあって、でも「それはまあ面白いんだけど置いといて」という感じで話の本筋とは関係ないのだ。ずるい。
ちょっと検索してみたらこの筆者は発達心理学の人らしい。うーむ。社会状況の分析に役立つ議論となるとエスノやシンボリック相互作用論の論文を漁った方がよいのだろうか。

「日雇い労働者であること」(あるいは「西成のアンコ」と言われるようなものであること)を学習していく。学習する必要がある、とここでは仮定している。その「必要」とはどのような理由によるものか。合理的あるいは効率的な立ち回り方について互いに情報交換する。情報とは方法のこと。方法は目的に沿うもの。「情報交換」の際には互いの目的が同一であるという合意が相互に仮定される。目的の内実というのを細かく見ていけば合意が成り立つ程度に同一であると見なされたようなものが実は全然違った、ということだってあるだろう。その時、「情報交換」という相互行為において現れる方法というものは個人の中にあった実は具体的で個人的な目的をあらぬ方向へそらしてしまう可能性を持つ(始めと終わりで言ってることが違っている、というようなもの、ととりあえず言っておく)。
「情報」(定番の話題、でもよい)が社会集団の中で支配的になり、相応の力を振るうようになる。
あー。
それを描いて結局何を言いたいのというところへ行ってしまう気がするがとにかく切り口を見つけていかなければなあ。